<随 想>『内蒙古の草原にて』

                                                                   片 野 彦 二  
神戸大学名誉教授・名古屋学院大学教授  

 私どもの既成概念の中では、蒙古族の人々はすべて遊牧の民であり、包を住居とし、夏営地と冬営地を往来し、水と草を求めて羊の群を追いながら生活を営んでいるものと考えられております。テレビその他のマスコミが流す情報も、ことさらにこれを強調する嫌いがあります。
 半年ほど前のことですが、私は中国の内蒙古自治区の草原に立っておりました。小高い丘の上の瀟洒な煉瓦造りの家の前です。住んでいるのは蒙古族の初老の夫婦、その他は数百頭の羊、数十頭の牛と馬です。この夫婦は、若いときには、これらの羊などを追って遊牧の生活を送っていたと言っています。当時の住まいはもちろん包。その頃のことを忘れないために、現在の住居の横に、使い古した包をそのまま残しております。このような生活様式の変化が、現在の内蒙古の草原では進んでいるのです。
 このような生活様式の変化を遊牧民の定住化と呼びます。定住化の傾向が内蒙古の蒙古族の人々の間に広がったのは、中華人民共和国が建設されて以降のことと思われます。政府によって「草原法」が施行され、草原の所有が国家に帰属し、羊などの飼育のための草原は、区画毎に政府から使用権を借りうけて利用することになったのが契機ではないかと考えます。一定の区画の中で羊を飼育するのですから、以前のように草場を求めて夏と冬とで住まいの場所を移動させることなく、区画の中で夏も冬も羊を飼育することになってしまったからです。冬場の草の不足には、夏から秋にかけて干し草を準備したり、羊の頭数を調整したりして対応します。現在では、これらの蒙古族の人々を、昔ながらに遊牧民とは呼ばないで、牧民と呼ぶようにもなってきております。
 遊牧民が定住して牧民となると、彼らの生活様式は大きく様変わりします。包の生活は移動を前提とするものですから、家具・調度の類は必要最小限のものに限られました。それに較べて、定住生活が始まると、遊牧生活では思いもかけなかった外部世界の文明が入ってきます。屋内での暖房設備、電灯を始めとする電化製品のかずかず。外部世界では既に日常化しているもので、遊牧民にとっても定住化によって日常化できるものは、経済力にも依存しますが、取り入れることができるようになります。
 文明の導入によって、遊牧民が従来育んできた遊牧文化は、これから先、どのようになるのでしょうか。まず、包での生活は過去のものとなります。過去の生活を偲ぶよすがとして、新しい家の敷地の片隅に残されることはあるにしても、既に日常生活の外に置き去りにされています。
 電化製品の利用に当たっては、各戸に風力発電設備を持っています。発電所からの送電線を草原くまなく張り巡らすこともできませんので、やむを得ないことです。草原には、年間通して強い風が吹いていますので、風車が止まることはありません。また、年間通して降雨量も僅少で、日射量も多いから、いずれはソーラー・システムの導入をはかる人々が出てくるかもしれません。
 内蒙古の草原地域と外部世界との交流が進むにつれて、物資の流通機構も大きく変わってきております。草原の要所には街ができ、そこには市場が開設され、草原では生産されない食料品・日用品等を買い込むこともできます。伝統的な蒙古族の食文化は、飼育する家畜のすべてを利用することにより、人体の維持に必要なすべての栄養源を賄うことを基礎としていたと言われております。農耕とは一切無縁な生活を送っていた彼らは、穀物や野菜を日常の用に供してはいませんでした。しかし、今日の彼らの食卓を見ると、穀物や野菜が並び、食事の内容は大いに様変わりしております。蒙古族の伝統的な文化は、外部世界との交流の拡大と、定住化により受け入れ可能になった近代文明の流入により、大きく変化しようとしているのではないでしょうか。
 文明というのは、どの地域で作り出されたものであっても、他のどの地域に移植しても根付いてしまうものと考えられます。これに対して、特定の地域の文化は、その地域の自然環境のもとで、そこに居住する人々が長い歴史の経緯の中で育て上げたものであり、他の地域への移植が困難なものです。上で述べたことは、蒙古族の伝統的な文化に対する外部からの文明の流入の影響のほんの一端を述べたに過ぎません。伝統的な蒙古族の文化は、幅広い底辺の上に築き上げられております。中華人民共和国が成立し、それまではなおざりにされてきた少数民族に対する対応も大きく変化しました。独立に対する民族自決権は認めないものの、少数民族独自の文化を尊重し、彼らの自治区への経済開発援助が積極的に推進されてきております。しかし、これらのことが外部世界との接触面をさらに拡大させます。内蒙古自治区への漢族の流入が増大し、漢語・漢文化の流入を余儀なくします。
 これらのことを考えると、伝統的な蒙古族の文化が、今後、どのような変貌を遂げるかは、予想の域を越えるものではありません。ただ、包での生活に別れを告げ、十分に暖房の利く煉瓦造りの家の中で初めて冬を迎えた時の思い出を語ってくれた主婦の顔は、未だに忘れることができません。

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