シリーズ@ 兵庫・神戸の歴史を歩く(春)
 阪神地域に桜の文化を訪ねて

園田学園女子大学名誉教授
田 辺 眞 人


「さくら」は春の女神
 春の盛りを象徴する桜の花を、古代の日本人は春の、山の女神だと考えて「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」と名づけた。木の花に咲く女神という意味で、とても美しい呼び名である。もっとも、木花開耶姫というのは、広い意味では木に咲く花一般を神格化したものだとも、梅の花を指すという説もある。「さくら」の語源は、動詞「咲く」に深く関わっていて、「さくや」が訛ったものだという解釈もある。あるいは、「さくら」は早苗(さ・なえ。米を成らす植物の苗)や早乙女(さ・おとめ。儀式的な田植えをする乙女)や五月(さ・つき。田植えつまり米と関わる月)のように、米を意味する「さ」という言葉に、「幣(みてぐら、神の宿るもの)」や「岩座(いわくら、神の宿る岩組)」のような神の宿る物を意味する「くら」という言葉が連結された名詞だと分析して、神の降臨する木の花の意味だという解釈もある。
 さまざまな山の神が各地の山々に祀られている中で、富士山の神を祭る浅間(せんげん)神社が祭神を木花開耶姫としているのは、最も美しい山の姿に最も美しい春の花の女神が重なった結果なのだろう。富士山の女神・木花開耶姫を祭る浅間神社が富士の宮で、静岡県の富士宮市はこの神社の名にちなむ市名なのである。

古代寺院と桜の伝説
 さて、神戸・兵庫地域で歴史や伝説にまつわる桜の名所を訪ねてみよう。
 北区山田町の名峰・丹生山(たんじょうさん)に独鈷桜(どっこざくら)と呼ばれる桜があった。伝説によると、大化の改新のころに仏教を広めるために来日した百済の王子・童男(どうなん)行者は、明石の浜に船を着けた。彼が船から上陸したところに、船上(ふなげ)という地名が付いたという。初めての土地で、どこに布教の拠点を置くべきかと迷っていた童男行者の前に、一人の翁が現れた。
「行者よ、私が霊地を教えてあげよう。この独鈷(仏教の法具)を投げるから、これが落ちたところに寺を築きなさい」
 翁が投げた独鈷を追った童男行者は、はるか内陸の丹生山までやって来ると、その山中の桜の枝に独鈷が引っ掛かっていた。行者がそこに建立したのが名刹・明要寺で、桜は独鈷桜と呼ばれるようになったという。
 丹生山明要寺には、平安末期に福原に都を置いた平清盛も平野から石井川、烏原谷をさかのぼって月参りしたと伝えられる。律令国家が衰退して武士の世の中になると、明要寺にも寺領や宝物を守るための僧兵がいた。南北朝の動乱期には南朝方の金谷兵庫助という武将が、明要寺を拠点にして北朝方の播磨の赤松氏に対抗し、暦応元年(1338)には西明石まで進出して和坂(かにがさか)で赤松勢と戦い、翌年にもシブレ山や端谷城(神戸市西区枦谷町)で赤松勢と戦っている。中世、明要寺は宗教的軍事的拠点でもあったわけである。
 戦国末期、尾張から出た織田信長は畿内を抑えると、やがて、中国地方の毛利勢と対立した。信長の命で羽柴秀吉が播磨を攻略したが、天正六年(1578)三木の別所長治が毛利と結んで反信長の兵を挙げる。西神戸や明石の武装勢力には、三木城と同盟するものが多く、明要寺もその一つであった。そのため、寺は秀吉軍に包囲され、天正七年二月に明要寺は落城した。この時、寺にいた稚児たちは東の峯伝いに逃れようとしたが、丹生山東方の山中で秀吉方の武士に見つかり、斬殺されてしまったという。戦いの後、土地の人々が稚児たちの遺体を葬ったという山は今も稚児ガ墓山と呼ばれている。
 北区には有馬に秀吉ゆかりの太閣桜、鼓が滝の前の有明桜という名桜もあった。
 一方、神戸市西区押部谷町の近江寺(きんこうじ)や木津(きず)・木見(こうみ)の地名も、古くから桜にまつわる伝説を持っている。大化の改新のころ仏教を広めに天竺から来日したという法道仙人が、近江の琵琶湖に浮かんで不思議な光を放つ桜の木を見つけた。仙人がこの木で観音像を彫ろうと考えていると、桜は湖面からはるか西方に飛び去ったという。仙人が後を追うと、木は播磨の明石郡の山中まで飛んで来ていた。木津はこの木が着地したところだという。その木を担いで霊地を求め歩く法道仙人に、土地の翁が清浄な土地を教えた。そこに仙人が建てた寺は、近江の琵琶湖にちなんで近江寺と名づけられた。翁が仙人と桜の木を見かけたところに付いたのが木見という地名だと伝説する。

源平史跡と桜の名所
 散り際が潔い桜の花は武士道の象徴の一つとされるが、神戸の市街地近くの桜の名所には中世の古戦場と重なるところが数多い。
 須磨で名のある桜は若木の桜で、これにちなんで今でも区内に若木町、桜木町という町名がある。若木の桜の名が最初に現れるのは『源氏物語』で「須磨に年かへりて日ながくつれづれなるに植えしわか木の桜」と紫式部が記している。源平合戦の時にはこの見事な桜に感銘を受けた弁慶が木を守ろうとして、その側に「ひと枝を折るものは、ひと指を切り落とされるべし」という札を立てたという。今では須磨寺境内に何代目かの若木の桜が花を咲かせている。須磨は寿永三年(1184)の一ノ谷の戦いの西の主戦場だが、「戦(たたかい)の浜」の石碑のある須磨浦公園は今、神戸を代表する花見の舞台となっている。
 寿永の源平合戦で東の主戦場となったのは生田の森である。江戸時代は生田神社の参道(現在、神社から朝日会館に至る生田筋)が神戸随一の桜の並木だった。寛政年間発行の『摂津名所図会』には木版の絵入りで「生田、花見の図」が描かれており、神戸の古い俚謡にも「梅は岡本、桜は生田、松は兵庫の湊川」というのがあって、東灘の岡本梅林や旧湊川の松林(現在の湊川公園から新開地本通り一帯の土手の松林で、明治初期には居留地の外国人がハンティングを楽しんだと言う)と並んで、生田の桜が歌い込まれている。ただ、当時から岡本の人達はこの俚謡を好まず、「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗丹波」と唄っていた。岡本梅林は生田の桜や湊川の松程度のものでなく、吉野の桜や紀州の蜜柑や丹波栗のように全国レベルなのだという自負心からであろう。

南北朝時代の城跡と桜
 鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の呼びかけに応じて楠木正成や護良親王が兵を挙げ、続いて元弘三年(1333)一月に西播磨で赤松円心が蜂起した。円心は京都の六波羅探題を攻撃するため、摂津に進軍して摩耶山上の名刹天上寺に陣取った。『太平記』の記す摩耶山城である。この赤松勢五百を征とうと、京都から幕府軍が五千余騎で摩耶山に迫ってきた。幕府側は同年閏二月十一日「摩耶ノ城ノ南ノ麓、求塚・八幡林(つまり東灘区の処女塚から六甲八幡の林)ヨリ・・七曲リトテケハシク細キ路」を攻め登った。しかし、地形を熟知した赤松勢に大敗。「六波羅ノ勢、ワヅカニ千騎ニダニモ足ラデ引キ返」したと、楠木正成の千早城の戦いのような円心の戦いぶりを『太平記』が描いている。
 昭和三十年代に六甲山系が瀬戸内海国立公園に編入されると、摩耶山上の掬星台(きくせいだい)一帯でも観光開発が進み、多くの桜が植えられ、「ハー桜見るならちょいと奥摩耶音頭」という歌詞の『奥摩耶音頭』が歌われていた。
 円心の摩耶山城の戦いから数か月で、足利尊氏が京都を抑え新田義貞が鎌倉を占領して鎌倉幕府は崩壊する。翌、建武元年(1334)に後醍醐天皇の建武の新政が始まったが、武士の不満が大きく、戦火が再燃する。建武三年、九州から水陸の大軍で都を目指す尊氏勢が、都からこれを迎撃に来た義貞・正成軍と闘ったのが五月二十五日の湊川の戦いである。この湊川の戦いに際して、楠木正成が陣取ったとされる会下山公園も、兵庫区を代表する桜の名所で、山上にある東郷平八郎筆の「大楠公湊川之陣遺蹟」碑あたりからは、春には咲き誇った桜の枝越しに神戸の街が眺められる。
 ところで、神戸の市街地には今でも城の正面を表す「大手」という地名が二カ所、生きている。一つは須磨区大手町という町名、もう一つは東灘区御影の大手筋という道路名である。いずれも南北朝時代の須磨は松岡城、御影は御影城という城の正面だったことを示す地名なのである。楠木正成や後醍醐天皇が亡くなって南朝方は衰弱するが、十四世紀半ばには足利方が分裂したため南朝方も息を吹き返し、天下三分という混乱状態になる。世にこれを観応の擾乱(じょうらん)と呼んでいる。御影城はそのころ御影に勢力を張った平野忠勝という土豪の居城で、今の御影北小学校あたりにあった。御影町郡家の「城の前」という地名もその名残で、城の西の堀が石屋川、東の堀がわりが今の深田池とそこから流れ出す天神川であった。この深田池の周囲も桜の名所である。一方の松岡城には、観応二年(1351)打出・御影浜の戦いで弟・足利直義(ただよし)に敗れた尊氏が逃げ込んで、あわや切腹しかけたことがあった。大手町九丁目にある勝福寺とその裏山が松岡城の跡地で、そこに拠る武家勢力が戦勝を祈って祀ったのが大手の権現さま・証誠神社である。この神社の南、妙法寺川沿いの公園も大いににぎわう桜の名所である。
 神戸近辺の桜の名所は、重要な史跡と重なるところが数多いのである。

桜と生きた人間ドラマ
 JRの最も新しい駅の一つに「さくら夙川駅」がある。既設の阪急夙川駅との混同を避けて「さくら」を付けたのだろうが、夙川の土手も桜の名所だから、その名にまったく違和感がない。この夙川だけでなく西宮市では満池谷や甲山一帯、大阪では造幣局、近江舞子の千本桜まで、名所の桜の植樹に関する功労者に笹部新太郎という人があった。
 明治二十年、大阪堂島の資産家の次男として生まれた新太郎は、東大の法学部に進むが、大の桜好き。好きなことで生きろという父親と、好きな桜の神様になれという東大教授の理解で、卒業後は桜の研究に邁進した。二十五才のときに兄から武田尾の山林を与えられて実習林として活用しながら経験を積み、各地の桜を育成した。昭和三十五年に、彼を電源開発公団総裁の碕達之助が訪れた。岐阜県の御母衣ダムによって水没する樹齢四百年のエドヒガンザクラの移植を依頼するための来訪だった。その難問解決に成功して脚光を浴びた笹部をモデルとして、昭和四十二年に水上勉が小説『桜守』を毎日新聞夕刊に連載する。この小説は昭和五十一年にNHKのテレビドラマになったが、その時、笹部は八十九才であった。昭和三十五年から笹部は阪急岡本駅のすぐ北に住んでいた。その家に岐阜県の路線バスの車掌・佐藤良二が訪問してきたのは昭和四十五年のことだった。アドバイスを受けた佐藤は独力でバス道に沿って本州を横断する桜並木を作ろうとしていた。これも、中部地方で知られる桜街道である。
 昭和五十三年の笹部の没後、岡本駅北の旧笹部邸跡は神戸市が桜守公園として整備した。JR福知山線武田尾駅近くの実験林跡は、宝塚市が桜の園として開放している。彼が遺した桜に関する五千点余りの書籍骨董ノート類は、西宮市の白鹿酒造記念博物館で笹部コレクションとして公開されている。阪神間の桜の季節に、このような歴史や人の物語をふり返りながら、街かどウォークを楽しんでいただきたいものである。

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