遺伝子検査と保険

流通科学大学サービス産業学部講師
中 島 孝 子

1.はじめに
 生命科学の進展に伴って、遺伝子検査が臨床で使用されるようになってきている。遺伝子検査は、ヒトの遺伝子を直接または間接的に調べて、病気を引き起こすような遺伝子変異の有無を調べる手段である。
 遺伝子検査に関する問題は、すでに検査を受けた場合についての検査「後」の問題と、「検査を受けるか否か」という検査「前」の問題の2つに分けられる。
 検査「後」において、心配され、また実際に起きている問題は、「遺伝子差別」である。医療保険に関して言えば、検査の結果、遺伝子に異常があることが判明すると、保険料の上昇や保険引き受けの拒否が予想される。こうした差別については2つの立場がある。一つは、ハイリスクタイプの個人に対し高い保険料をチャージすることは倫理的に肯定できないとする立場である。もう一つは、保険者の立場である。保険者は、逆選択の発生や競争力の低下を懸念し、遺伝的条件も保険料決定の条件となることを主張する。医療保険の問題のほかに、遺伝子検査が社会にもたらす「悪影響」として、解雇などの問題が挙げられている。企業にとって、病気になりやすい被雇用者は医療費用がかかるだけでなく、生産性も低いかもしれない。
 さらに研究者の立場から、保険や雇用における検査「後」の問題が個人の意志決定に影響を与え、「遺伝子検査を受けないかもしれない」と心配されている。これは検査「前」の問題である。もし人々が遺伝子検査を受けなければ、「(個人は)治療のタイミングを失い、長期的な医療費の増加の可能性を生み、科学の進歩を阻害する」ことになる(The ad hoc committee on genetic testing/insurance issues, 1995、レニー, 1994、立岩, 1998)。
 本論では、2つの問題のうち、検査「後」の問題を関心の対象としている。

2.非対称情報と保険市場
2.1. 分析の枠組み:Rothchild-Stiglitzモデル
 Strohmenger and Wambach(2000)は保険の観点から、遺伝子検査を「被保険者のリスク分類をより正確にする新たな可能性(1)」、「新たな非対称情報の源泉」と位置付けた。
 私的保険市場における情報の非対称性の問題を分析したのは、Rothchild and Stiglitz (1976、以下RS)が最初である。本論では特に医療保険市場に注目する。RSモデルにおいては、市場に多数の私的保険者と多数の個人が存在し、市場は競争的であることが仮定される。個人はリスク回避的、保険者はリスク中立的である。保険者が保険を維持する費用はゼロである。個人のタイプには、病気になる可能性の高いタイプと低いタイプがあり、それぞれハイリスクタイプ、ローリスクタイプと呼ぶ。人口においてハイリスクタイプが存在する割合をω∈(0,1)とする。
 個人は、属するリスクタイプ以外は全て同じである。個人は初期において資産Wを保有し、将来病気になる可能性がある。病気になると治療費用がdだけかかる。リスクタイプiの病気にかかる確率を pi∈(0,1)(i=H,L) とする。ただし、W > d > 0 および pH > pL である。確率 pi は外生的である。人口における平均発病確率 pM は(1)式をみたす。

(1)    pM=ωpH+(1-ω)pL
 最初に完全情報の場合を考える。つまり、「保険者は、各個人の属するリスクタイプを知っている」。完全情報の仮定のもとでの均衡を、図1を使って示す。
 図1において、横軸W1は損失が発生しないときの個人の資産を、縦軸W2は損失が発生したときの個人の資産を表す。点Eは初期点(保険を購入しないときの資産の組合せ)である。
 保険契約は保険償還率と保険料率とで構成される。保険料率pHの保険が個人にもたらす資産の組合せの集合は、線分BEによって表される。保険料率pLの場合は、線分AEである。点Eにおいて保険償還率はゼロ、点Bおよび点Aでは1となる。
 曲線Iiはリスクタイプ i の無差別曲線である。無差別曲線は、原点に対し凸の形をしていて、原点から遠ければ遠いほど高い効用を表す。各タイプの発病確率の違いから、無差別曲線ILは無差別曲線IHより常に傾きが大きい。
 情報が完全なので、保険者は個人のリスクタイプを完全に区別できる。保険者はハイリスクタイプには点Bを、ローリスクタイプには点Aをもたらす契約をオファーする。ハイリスクタイプにとって点Bは直線BE上の点の中で最も好ましく、ローリスクタイプにとって点Aは直線AE上の点の中で最も好ましい。
 不完全情報の場合を考える。保険者は、個人の属するリスクタイプが2種類あることと、それぞれのタイプの発病確率は知っているが、各個人がどのリスクタイプに属しているかを知らない。RSは、ハイリスクタイプの存在割合ωが十分に大きいとき、分離均衡が存在することを示した。 
 分離均衡において、2種類の保険契約がオファーされる。図1において、分離均衡は、もし存在するならば、点B、Cで与えられる。ハイリスクタイプにとって、点BとCは無差別である。ハイリスクタイプは前者を、ローリスクタイプは後者を得る。
 RSは、完全情報の場合の結果を「最も効率的」な状態とした。情報が完全であれば、ローリスクタイプは最も高い効用を得られる(点A)にもかかわらず、情報が不完全なために、点Aよりも低い効用水準(点C)に甘んじなければならないためである。

2.2. 遺伝子検査の結果:情報の意味
 個人が、ある病気に関連する遺伝子の検査を受けると、結果は遺伝子に異常がある(ハイリスク)かまたは異常がない(ローリスク)かのどちらかとなる。遺伝子検査によって得られる情報の意味を、RSモデルにおける「発病リスク」との対比によって考える。
 リスクタイプを保険者に知らせるかどうかについて、各リスクタイプの個人が望むことは、RSモデルにおいても遺伝子検査後においても同じである。ローリスクタイプは自分の「低い」リスクを保険者に知らせ、契約内容に反映させたいと望む。ハイリスクタイプは自分のタイプを隠し、ローリスクタイプのふりをすることで得をしようとするだろう。一方、保険者は常に顧客のリスクタイプを知りたいと望んでいる。この意味で、発病リスクという個人情報に関し、保険者とローリスクタイプの利害は一致しているが、ハイリスクタイプのみが異なるインセンティブを持っている。
 RSモデルで考察されている「発病リスク」と遺伝子検査結果という「発病リスク」とが異なる点は以下の通りである。
 RSモデルにおいて、保険者はハイリスクタイプとローリスクタイプとを区別できない。そのような例として、個人が自分の発病リスクについて持つ、ある主観的な評価をあげることができる。例えば、ある個人は「父方の親戚に糖尿病の患者が多い」ことから、自分も糖尿病になる可能性が高いと予測するかもしれない。しかし、この個人が本当に父方の性質を受け継いでいるかどうかについて、個人も保険者も確認することはできない。あるいは、受けた健康診断の結果から、個人は、将来の発病確率について何らかの評価をするかもしれない。しかし、健康診断などで得られる検査結果はある時点での個人の健康状態を示しているにすぎない。同じ個人であっても、検査機器が異なれば数値が異なることがある。また、生活習慣などをかえることで、検査結果の数値が変化する可能性もある(Doherty and Thistle, 1996)。
 これに対し、遺伝子検査の結果はユverifiableユである点が特徴である(Doherty and Thistle, 1996)。遺伝子検査とは、ごく単純に言えば、DNAのある特定の部分の塩基配列を調べることである。体細胞レベルでの突然変異などがない限り、遺伝情報は、個人のどの細胞でも同じであり、検査機器や検査時期によって結果が変化することは稀である。すなわち保険者にとって、遺伝子検査結果の確認は容易である。例えば、「自分はローリスクである」と主張している個人に対して、保険者は検査結果のコピーを提出させればよい。疑わしければ、そのコピーが本物かどうかを検査者に問い合わせるだろう。

3. 私的健康保険市場における
         遺伝子検査の効果

 以下では基本的にRSモデルの枠組みを使用する。RSの枠組みと異なる点は次の通りである。市場には遺伝子検査を受けた個人しかおらず、保険者はこのことを知っている。個人は、保険者に対して自分のリスクタイプを公表するかどうかを決めることができる。しかし、保険者が事前において、検査結果、つまり個人の属するリスクタイプに関し非対称情報に直面している点はRSモデルと同じである。
 「遺伝子検査に伴う心配」の問題に関連して、私的保険市場における保険者に対し、いくつかの規制が考えられ、実施されてきた。これらの規制は遺伝子検査後の医療保険市場にどのような効果をもたらすのだろうか。以下では、それらの規制のもとで保険者がとりうる選択肢とその結果を考察する。

3.1.規制の種類とその帰結
 遺伝子検査結果という情報を取り扱う際の規制をDoherty and Thistle(1996)に従い、以下のように分類する。

規制1:保険者が、申込者に対して検査結果の報告を要求し、検査結果を保険内容に反映させることを許す。
規制2:保険者は申込者に対して検査結果を聞くことが許される。
規制3:A Consent Law. 個人が同意したときのみ、検査結果が公表される。
規制4:保険者は保険契約において、個人の遺伝情報を使用してはならない。
規制5:規制4に加え、保険者にはどの保険申込者も全く同じように取り扱う義務があり、保険料率などに差をつけられない

 規制1は「何も規制がない」状況である。規制2で、保険者は検査結果を聞くことができるが、個人は保険者の問いに答える必要はない。同時に個人は自発的に結果を公表することも可能である。規制3は規制2を強めたもので、結果の公表には個人の同意が必要である。一方、規制4と5において保険者は個人の遺伝情報を一切使用できない。個人の側から見れば、結果を公表するかどうかを選べないような規制である。
 何も規制がないとき(規制1)、保険者が取りうる選択肢として、以下の2つがある。これらの選択肢において、保険者は結果を明らかにする個人とそうでない個人とで、オファーする契約を変える。

選択肢1:保険者は結果を公表してローリスクタイプだった個人には図1の点Aを、結果を公表してハイリスクタイプだった個人には点Bを、結果を公表しない個人に対しては、点Bまたは点Cをもたらす契約をオファーして選ばせる。
選択肢2:保険者は結果を公表してローリスクタイプだった個人には、点Aを、結果を公表してハイリスクタイプだった個人には点Bを、結果を公表しない個人に対しては点Bをもたらす契約をオファーする。

 保険者が選択肢1を選ぶとき、結果を公表しない個人のうち、ハイリスクタイプは点Bを、ローリスクタイプは点Cをもたらす契約を選び、保険者は個人のタイプを分離できる。次に、個人は結果を公表したときとしないときの効用を比較して、どちらにするか決めるだろう。ローリスクタイプは結果を公表すると点Aを得るが、公表しなければ点Cを得る。点Aは点Cより好ましいので結果を公表する。一方ハイリスクタイプは、結果を公表してもしなくても点Bを得る。
 選択肢1と選択肢2において、ローリスクタイプは常に結果を公表する。市場には遺伝子検査を受けた個人しか存在しないので、保険者にとって「結果を公表しない者はローリスクタイプではない」。つまり、事後において保険者は個人のリスクタイプに関し完全情報を得ることができ、市場はRSの意味で効率的な状態になる。
 選択肢2が選択肢1と異なる点は、個人がリスクタイプを公表しないときの保険契約を制限している点だけである。
 規制2と規制3のもとで、個人は結果を公表するかどうかを選ぶことができる。したがって、これらの規制のもとでは、何も規制がない場合と同様、保険者は選択肢1または選択肢2を選ぶ。市場は事後的に完全情報となり、RSの意味で効率的になる。
 結果として、規制1〜3は同じ効果を持つ。
 規制4のとき、情報は非対称である。そこで、選択肢3が考えられる。

選択肢3:保険者は検査結果にかかわらず遺伝子検査を受けた個人全員に、点Bまたは点Cをもたらす契約をオファーして選ばせる。

 選択肢3のとき、ハイリスクタイプは点Bを、ローリスクタイプは点Cを選び、 RSモデルの分離均衡と同様の結果を得る。
 規制5では、規制4に加え、保険者は申込者によって保険料率などに差をつけられない。この点を考慮すると、選択肢4が考えられる。

選択肢4:保険者は検査結果にかかわらず遺伝子検査を受けた個人全員に、1種類の契約をオファーするよう強制される。

 選択肢4の場合、保険者は少なくとも保険料率pMの契約をオファーするだろう(2)。保険料率pMの契約が個人にもたらす資産の組合せは、図1の直線MEである。保険者は点Dをもたらす契約をオファーする。点Dは保険料率pMのもとで、ローリスクタイプの期待効用を最大にする。仮に点D以外の点をもたらす契約をオファーすると、保険者はローリスクタイプの顧客を失う。
 点Dをもたらす契約について、個人がこの保険を購入するかどうかに関する、「参加制約」を考える。ハイリスクタイプにとって点Dは無保険(点E)より常に好ましい。一方、ローリスクタイプは、「無保険(点E)より点Dが好ましい」ならばこの保険を購入するが、逆ならば購入しない。後者の場合、市場にはハイリスクタイプだけが残り、逆選択が発生する。このとき、保険者は点Bをもたらす契約をオファーする。
 RSの意味での効率性は、規制4および5のもとでは達成されない。

3.2. 2つの対立
 私的保険市場モデルにおいて、遺伝子検査結果という個人情報は2つの対立を生む。
 一つは、「自己情報コントロール権」に関する、リスクタイプ間の対立である(3)。ハイリスクタイプの権利を尊重すれば、規制4または5が選ばれ、ローリスクタイプは自分の優位性を利用できない。逆にローリスクタイプの権利を尊重すれば、規制1〜3が選ばれ、市場は事後的に完全情報となる。
 もう一つは、平等と市場の効率性との間の対立である。ハイリスクタイプに高い保険料率を課してはならない、という立場をとれば、当局は規制4または5を選ぶだろう。しかし、これらの規制を選ぶことは、新たな技術によって市場が効率的になる可能性があるにもかかわらず、その可能性を無視しているといえる。
 ここで、どちらのリスクタイプの自己情報コントロール権を尊重するのか、同じことであるが、効率性と平等のどちらを重視するのか、という問題が発生する。どちらを選ぶかについては社会的な合意が必要であると考えられる。

4. まとめ
 本論文では、遺伝子検査という新しい技術が「私的医療保険市場」にどのような影響を与えるか、ということを考察した。これまで「遺伝子検査に伴う心配」がなされ、これを解決するため、個人の遺伝情報の取り扱いに関し、保険者に対する規制が考えられ実施されてきた。本論では5種類の規制について考察している。
 その結果、規制1〜3がとられているとき、市場は事後的に完全情報となる。なお、規制3(Consent Law) がハイリスクタイプの「権利」の尊重を目的として考えられたにもかかわらず、事後的に完全情報をもたらす点に注目すべきである(4)。
 規制4、5で個人は結果の公表に関する選択が制限され、市場は基本的に不完全情報のままである。規制4がとられているとき保険者はリスクタイプを分離できる。規制5の場合、全ての個人に1種類の保険だけが供給されるが「逆選択」が生じる可能性がある。どちらの規制の場合も、RSの意味での効率性は達成されない。
 以上より、各規制は、それぞれ異なる帰結をもたらす。どの規制を選ぶかについては、社会的な合意が必要である。

(注)
(1)ただし、病気によって、単一の遺伝子の異常だけが原因のものもあれば、複数の遺伝子がからんでいるもの、遺伝子に異常があっても、環境との相互作用で発病の時期や程度が変化するものなど様々である(松田、1999)。
(2)これより保険料率を低くすると、保険者の期待利潤は負となり、実行不可能である。
(3)「自己情報コントロール権」とは、「プライバシーを保護することを目的に、個人情報を当該個人のコントロール下におくこと」である(池永、1997)。
(4) Tabarrok (1994)。

参考文献
The ad hoc committee on Genetic testing/insurance issues 1995, Background statement: genetic testing and insurance, American Journal of Human Genetics 56: 327-331.
Doherty, N.A. and P.D. Thistle, 1996, Adverse selection with endogenous information in insurance markets, Journal of Public Economics 63, 83-102.
Rothchild, M., Stiglitz, J.E., 1976, Equilibrium in competitive insurance markets: an essay in the economics of imperfect information, Quarterly Journal of Economics 90, 629-649.
Strohmenger, R. and A. Wambach, 2000, Adverse selection and categorical discrimination in the health insurance market: the effect of genetic tests, Journal of Health Economics 19, 197-218.
Tabarrok, A., 1994, Genetic testing: an economic and contractarian analysis, Journal of Health Economics 13, 75-91.
池永満、「患者の権利」、改訂増補版、九州大学出版会、1997。
立岩真也、「未知による連帯の限界 遺伝子検査と保険」、現代思想、No. 9, Vol. 26-11, 1998。
松田一郎、「動きだした遺伝子医療」、裳華房、1999。
J. レニー、「遺伝子診断と米国社会」、日経サイエンス 1994年8月号。