医療サービス供給システムの諸類型
神戸大学大学院経済学研究科教授
足 立 正 樹
1.健康財の特質と医療保障
現代社会において医療保障がはたしている役割は、はかり知れないほど大きい。かつて医学が未発達で、医療費がきわめて高価であった時代においては、疾病はいわば宿命に近いものであり、人々はこれを甘受する他はなかった。1958年に新国民健康保険法が制定され、今からちょうど40年まえの1961年に制度化が完了して国民皆保険が実施されるまでは、わが国においても健康保険非適用者にとってはこれに似たような状況であった。もちろん社会的制度に完全なものはなく、わが国の医療保障が過去さまざまな問題を抱えてきたこと、したがってこの40年は絶えざる改革の歴史であったことはいうまでもない。しかしながらそれが果たした成果を過少に評価してはならない。わが国の平均寿命が男女共に世界最高に達した原因の主たるものは、皆保険によって実現された医療への一般国民のアクセスの容易化にもとめなければならないのである。
このようにわが国では、保険、しかも社会保険によって国民に医療へのアクセスを保証している。しかしこうした社会保険による医療サービスの提供は、唯一の方式ではなく、今日世界には他にいくつかの方式が併存している。そうした医療サービスの供給システムの特徴を定型化し、若干の比較を試みることが本稿の目的である。ただしここでの供給システムとは、需要から区別された狭義の供給のシステムではなく、社会的な需要になんらかの形で応えていく方式、つまり需給調整システムの意味であることを断っておかねばならない。
医療サービスが提供するものは健康であるが、この健康を一つの種類の財(Goods)ととらえるならば、これは一般の財とは異なったいくつかの特性を備えており、ここから健康財の需要と供給の調整はさまざまな困難を抱え込むことになる。医療サービスという言葉が示すように、健康は大部分がサービス、しかも人的なサービスによって提供される。人的なサービスは一般的に「単一行為の原則」のもとにおかれている。つまりサービスにあっては生産者と消費者の協働が不可欠であり、医師や看護婦は患者不在のもとでサービスを生産することはほとんど不可能であり、患者も医師や看護婦がいなければサービスを消費することができない。このため普通の財のように貯蔵したり輸送することがほとんどできず、大量生産による合理化も困難となる。しかも健康に対する消費者の欲求は極めて大きいため、医療は絶えず高度化、高級化の方向で動くのを常としてきた。コストの引き下げへの圧力がほとんど期待できないのである。またこれにともなって医療サービスはますます高度の専門性をもつようになり、適正な生産能力を獲得するためには長期間の養成を必要とし、需要の短期的変動に対応することができない。そして高度の専門性のため消費者の側での適切な判断が困難でありながら、他方で世間のうわさや個人的思いこみに基づく非合理的な選り好みが強く働くといった事情がさけられない。
健康はまた現時点では過小に評価される「将来財」の性質をもっている。これは2つの面でみることができる。一方では、病院のベッドは、ホテルとは違っていつも満員であってはならない。不慮の大事故や災害、伝染病にも備えなければならないから、構造的にある程度の無駄が必要になるのである。他方では、健康な人は健康を当たり前で永続するものと考えるため、病気になった場合の配慮、つまり治療費等の蓄えをしない。ここから病気になっても医師にかかれず、一層の健康の悪化、貧困化がさけられなくなる。こうして医療は、将来財であることから、放置して各人の判断に委ねるならば、過少供給になり、貧困化の原因となる。疾病と貧困の悪循環の打破が19世紀においては大きな問題であった。当時においては疾病の治療と並んで、疾病手当の形での生活費の保障が重要な役割をはたしていたのである。
もう一つ忘れてならないのは、健康は「公共財」の性質をも部分的に備えているということである。公共財とは、生産コストを負担しなかった人をも消費から排除しえないという非排除性と複数の人が同時に消費できる非競合性を備えた財と定義されるが、まず健康が非競合性を備えていることはいうまでもない。健康はすべての人が同時に享受しても何ら不都合は生じないのである。そして伝染病を例に取るならば、社会のほとんどの人が予防接種を受けており、その病気が発生する確率がきわめて低いならば、予防接種を受けていない人もその病気にかからない蓋然性が非常に高くなる。つまり予防接種という形での病気予防の費用を負担しなかった人も、健康の享受から排除されないのである。費用を負担しなくても健康を享受できるなら、その費用を進んで負担しようという動機は働かない。公衆衛生の分野に典型的にみられることだが、ここでも各人の自由な判断に委ねるならば、過少供給がさけられない。
2.健康財の需給調整メカニズム
すでに前節で述べたことから明らかなように、医療サービスの需給の調整において市場メカニズムが働く可能性はきわめて限られている。医療サービスが成熟している先進諸国において、それを完全に自由な市場に委ねている国は存在しないといってよい。何らかの形で医療は社会化されているのである。しかしながら、市場性、もしくはその内容である競争的要素を完全に排除している国もまた存在しない。市場はやはり自由社会の最も中心的な統御原理であり、過度の市場性の否定は効率や公正の面でさまざまな問題を引き起こすからである。こうして医療サービスの需給調整システムの第1の基本型として市場メカニズムをあげることができる。ここでは供給主体である病院や医師と消費主体である患者が直接対峙し、病院等が医療行為を提供し、患者は市場で需給に応じて決まってくる代価を支払う。
この供給主体と消費主体のあいだに民間保険が介在するケースも、基本的にこの範疇に含めることができる。保険会社は双方の主体と契約を結び、消費主体は保険料を支払って、サービスをうける権利を取得する。契約の内容、つまり支払う保険料の多寡によって給付の内容は様々であるが、保険加入が強制されるわけではない。
医療サービスを社会化するに当たっては大きく分けて2つの方式が存在する。2つは市場性をできる限り排除しようとするものであり、最も純粋な形においては全額公費による無料の医療の提供を考えることができる。この場合、財源には税収が充てられることになり、医療給付の流れと対価の流れ(医師の報酬など)の間に直接的な対応関係はなくなる。主たる決定の場面は政治に移されることになり、国民は、支払った税の使い道あるいは医療の給付水準について種々の選挙をとおして監視するという統御の可能性は残されているが、具体的なケースでの直接的な交換関係はない。この場合、完全に市場性が除去されるかといえば、必ずしもそうではない。供給主体がすべて国営化されて自由意志が完全に排除されているのでなければ、様々な主体はより多くの患者を求めて競争するであろうし、患者はまたすぐれた供給主体を求めて相互に競争する。評判のよい医者や病院にできる長蛇の行列はまさにこうした競争の表れである。
医療サービスの社会化の第2の方式は、一般的に社会的医療保険とよぶことができる。ここでは一定の範囲の消費者を集団としてまとめて公的保険に加入させ、保険料の拠出を条件にして無料もしくは低額の負担で医療サービスを保障するのである。強制加入と保険料の拠出という条件をみたせばすべてこの範疇に含めることができるが、被保険者の範囲や保険料の決定方式、供給主体の経営形態や診療報酬の決定方式、あるいは公費による財政援助の程度や自己負担の有無並びに決定方法などに関して、その具体的運営形態はきわめて多様である。
先の公費保障方式に比べると、この社会保険方式でははるかに多くの競争的要因を組み込むことができる。供給主体相互と消費主体相互、さらには各種保険者相互の競争が強化される可能性を潜在的にもっているのである。しかしわが国の社会的医療保険においては、後に見るように、この可能性はほとんど実現されていない。
このように医療サービスの供給メカニズムをごく単純に区分すれば、市場方式、公費方式、社会保険方式の3つをあげることができる。すでに明らかなように、これらは単独でも相互に結合しても機能することができ、現実にはほとんどの場合それらが組み合わされて医療サービスが供給されている。
3.医療サービス供給システムの諸類型
さきに確認した3つの医療サービス供給メカニズムが、現実にどのように形成されてきたかを、歴史的経緯を考慮しながら定型化してみよう。
医療サービスを市場にまかせると過少供給になることは上に述べたとおりだが、これを最初に社会化したのは19世紀末のドイツであった。時の宰相ビスマルクは社会主義化する労働者にたいする飴と鞭の政策の一環として社会保険を導入しようと考え、その最初のものが1883年に疾病保険として成立したのである。この世界最初の社会保険は、古いものは中世初めにさかのぼるといわれる労働者の自主的な相互救済制度を受け継いで、これに法的な基礎をあたえ、一定の範囲の労働者に加入を強制したものであり、労働者、資本家いずれもこの政策に厳しく反対した。ほとんどすべてビスマルクの個人的な努力によって実現された社会保険は、やがて国内で拡充されるとともに世界各国に普及して、社会保障制度の最も中心的な制度となって今日に至っている。ドイツの疾病保険の特徴は、保険者たる疾病金庫に大きな自主的決定権をあたえ、その運営を保険金を負担する労働者と雇用主の代表に任せたということにある。例えば医師の診療報酬は、長い間、医師の代表と疾病金庫の代表の自由な交渉によって決定されてきた。官僚の介入は最小限におさえられ、「社会保険自主管理」が運営の原則とされてきたのである。
社会保障においてイギリスはドイツの対照的な定型として位置づけられることが多い。これは何よりも1942年に発表され戦後ほとんどそのまま主に労働党政権によって実行されたベヴァリジ計画に基礎をもっている。特に1946年に制定された国民保健サービス(NHS)法は、医療の社会化についてのベヴァリジの考えをさらに徹底させたもので、これを担当した保健大臣ベヴァンによって「医療の社会主義」と誇らかに呼ばれた。つまり一方においては医療サービスが全額公費によって負担されるとともに、他方では病院がすべて国有に移されたことによって医療サービスの供給サイドもまた大きく社会化されたのである。これは、医療にかんする夢を実現し、地上に楽園をもたらすものとして大いに歓迎され、世界中の注目を集めた。このような大胆な実験の背後には、医療費を無料にすることによって、全体の医療費は減少するという楽観的な期待が存在していた。つまり医療費を無料にすると病気の人は安心して医師にかかることができ、短期的には医療費が増大するとしても、国民の健康水準が向上することによって医師にかかる必要が減じ、全体のコストは減少すると期待されたのである。この期待が幻であったことはいうまでもない。何よりも健康に対する人間の期待は無限大であって、無料にすればその欲求をかきたてるだけに過ぎないのである。1950年に始まる朝鮮戦争をきっかけに再軍備論争がまきおこり、「大砲かバターか」が争われるなかで労働党政府は苦渋にみちた選択を迫られた。再軍備の選択とともに無料の医療は後退し、患者の一部負担が導入されて理想の供給システムは4年で幕を閉じることになった。もっともNHSは今日でも税を基本的財源にしており、社会保険方式を中心にした大陸系の諸国とは際だった対照をなしている。
社会保障という言葉が法律の名称として最初に登場したのは、大恐慌のさなかのアメリカにおいてであった。社会保障は、1935年にルーズベルトによってニューディールの一環として実施されたのである。しかしアメリカは、今日に至るまで自由主義の信奉者として自認しており、ヨーロッパの意味での社会保障の推進に関しては消極的な態度をとり続けている。これは医療サービスについても同様であり、アメリカにはすべての国民を対象とする医療保障は存在していない。貧困者はメディケイドという医療扶助を受けることができるが、多くのアメリカ人は、医療費を私的に支払うか、民間の医療保険に加入しなければならないのであり、ここにかなり純粋な市場メカニズムをみることができる。有力な企業は従業員をまとめて民間の医療保険に加入させるが、他方では中小企業の従業員を中心に約3,000万の人々が、民間医療保険に加入できないまま放置されるという事態になっている。先の大統領クリントンの第1期の中心政策構想の1つが、こうした人々への医療保険の導入であり、一定の基準を満たす民間保険へ強制的に加入させるという方法を考えていた。しかしこれも経営者層の強い反対にあい、実現できなかったことは周知の通りである。富裕な患者は、金に糸目をつけないため最先端の高級医療技術が発展し、国民1人あたりの医療費は世界最高の水準にある。
わが国では、先にふれたように国民皆保険が実現されており、すべての国民が何らかの公的な医療保険に加入することになっている。もっとも社会保険といっても保険料の収入のみで運営されている制度は、世界的にみてもほとんどなく多かれ少なかれ公費による補助が行われている。従って総収入にしめる保険料の比率が高ければ高いほど、社会保険として純粋であるということができる。わが国の代表的な制度の1つである国民健康保険は、公費が50%を占めており、しかも赤字が出た場合、保険者である市町村が一般会計から補填しているのが普通であり、保険としての性格はきわめて薄められており、財政構造がまったく不透明になっている。しかもすべての公的医療保険において保険者の自主性はほとんど認められておらず、単なる徴収・支払機関の役割を果たしているにすぎない。競争の要素がまったく働いていないのである。しかも被保険者は、どの保険に加入するかの選択権をもたず、被用者は自動的に働く職場の健康保険に加入し、それ以外の人は住んでいる地域の国民健康保険に加入しなければならない。保険者は、被保険者が脱退するリスクを考えなくてすむのであり、これがまた医療分野における競争を妨げているのである。
4.医療サービスと「合理性の罠」
医療サービスの需要サイドの社会化には、公費負担方式と社会保険方式の2つがあったが、これらは過少供給を回避して安定供給を確保するために費用負担の強制を導入するものであった。公費負担は強制的に徴収された租税を充てるものであり、社会保険は一定の範囲の人を社会保険に強制的に加入させ、保険料を強要するものである。この強制的措置の導入によって、人々は疾病の際に安心して医療サービスを消費することができ、過少供給のリスクは回避される。
しかしながらこれによって医療サービスは、いっそう公共財の性質をつよめ、消費の拡大が刺激され、一転過剰供給の危険が生じてくる。人々が合理的に、つまり自己の利益を拡大させようと行動すると仮定するならば、彼らは費用負担から逃げられない見返りとして、強制されたコスト負担を消費の側で取り返そうとするであろう。この結果、医療費が増大し、これが負担増を必要とし、さらに消費を刺激する。逆方向の悪循環が発生するのであり、こうして個人の合理性と全体の合理性が分裂する「合理性の罠」が顕在化することになる。これは、個人にとっては合理的なことが、社会全体では不合理な結果を招くことであり、ミクロの合理性とマクロの合理性の分裂を意味する。1970年代のヨーロッパ諸国ではこの現象が顕著にあらわれ、センセーショナルに「費用爆発」とよばれてその抑制が求められた。それまでは、費用の増大は、それだけ医療保障が充実した証とされ、甘んじて受け止められてきた。高負担は、社会進歩の一環としてやむをえないものとみなされたのである。しかるにこの費用爆発を契機に、医療費、さらには社会保障費の急増が、社会全体にとって耐え難い負担と見なされるようになり、これが福祉国家の見直しの直接のきっかけとなった。戦後一貫して西側社会の政策理念であり続けた福祉国家はこうして転換が避けられないものとなったのである。
この合理性の罠は、俗な喩えでいえば、学生のコンパの割り勘と似ている。ある学生がビールを飲む量を減らしたとする。その節約によって十分に飲めなかったという犠牲は当人に集中し、それによって浮いた利益は出席者全員で割られて些少なものになる。逆に一人がたくさん飲んだ場合、利益はすべて飲んだ人に帰属するが、それによって増加する負担は全員で割られて少なくなる。こうして割り勘方式のもとでは、絶えず消費を拡大するメカニズムが働くのである。
ただし医療サービスに関しては、適正な給付水準の客観的な基準は存在しない。病気がちの人にとっては、絶えず供給は不十分であり、健康な人にとっては絶えず過剰である。社会的な合意の形成が困難な理由がここにある。負担の公平性と可能性を考慮に入れながら、妥協して合意点を追求するとともに、より効率的な需給調整メカニズムを構築していくほかはない。戦後の西ドイツでよく言われたことだが、社会問題にかんして「万能薬」、あるいは「専売特許の解決策」は存在しないのである。わが国についていえば、「水戸黄門の印籠」は存在しないというべきかもしれない。今年の1月から高齢者の医療費の自己負担の方式が定額制から1割の定率性へ変更された。これは統御メカニズムの点では明らかに前進である。
参考文献
足立正樹(編著)「新版 各国の社会保障」1993年
法律文化社
足立正樹「現代ドイツの社会保障」1995年 法律文化社
足立正樹(編著)「福祉国家の転換と福祉社会の展望」
2001年 高菅出版
足立正樹・井上久子(編著)「社会保障の光と陰」
2001年 高菅出版