「大きな諦め」_
元京都大学総長
神戸市立市民病院名誉院長
岡 本 道 雄
私は昨年米寿すなわち88才を迎えた。私の同門の研究者や日常お世話になっている人々からお祝いをしていただいた。
本当に有難く心温まる一夕であった。
しかしながら、喜ばしい会を終ってつくづく考えると88年間という年月は余りにも長く、よくも生きられたものであると思い、お祝いを言ってくださるお気持とそのようなことが米寿という習慣となって日本に生き続けていることについて、改めて旧いしきたりの意味を深く感じた次第であった。
しかし同時にそれ以後自らを88才であるぞよと自覚を新たにし、毎朝、新聞の死亡欄を見ると88才以上は誠に少ないのに驚く。
明日の分らぬことは人間誰しも同様であって、老若を問わないところであるが、医学を修め、人の生涯を眺めることの多い私は改めて自らの死の遠くない事を痛感する。今までは「日常」に埋没して、死というものを感じないまま、何か避けたいことがあれば、自らの能力と権力を駆使して何とかそれを避けるか重荷を軽減させる人生であった。しかし死は違う。人の死は絶対として迫って来る。「死」の実感である。初めて絶対の体験である。
人間は自らの死を実感して、初めて真面目になるのではないか。日常生活の中での真面目はしれたものである。
新渡戸稲造はその著、「武士道」の最初のところで19世紀英国の思想家ラスキンの言葉として、『戦争は人間のあらゆる高き徳と能力の基礎である。』を引用している。戦争は個人としての死と国の滅亡を意味しているからである。
さて、その迫りくる死に直面して私も亦真面目に考える。死に臨んでの先人の立派な言葉は沢山ある。しかし私にはどうしても立派に悟ることは出来ないのである。
子供としては親にせがみ、青少年としては自らの努力で獲得し、長じては能力と権力で常に何とか越えてきたものと違い、死は絶対である。
これほどの絶対に直面すれば、誰もが初めて人間の力の及ばないものとして宗教を考える。しかし宗教的素養のない私には今更「昇天」と言われたり、「輪廻」と言われても納得できるものでない。
これまでの一生、科学を研究してきた者として自然に考えれば、死は個体の消滅である。死滅である。諦めるより仕方がない。人生最大の諦めと思うより仕方がない。
諦めること。その諦め方を素直に静かに考えてみたい。本来人間は肉体と精神を持つべく生れてきた。デカルトの物心二元論と人間の心身一如である。しかし肉体としての人間は地球の生物として個体の死は避けられぬ。さて、心はどうか。デカルトの心身一如といい、道徳情念論といい、肉体と心は結びついている。心も亡びるより外ないであろう。存続するのは、ただ共感を得て人の心に残るもののみであろうか。思えば自己の亡びるのは耐え難く淋しく苦しいことである。
しかし予想する苦しみと、現実に来る苦しみとは違い、現実は常に救いと共に来る。欲望と苦しみは肉体の衰えと共に指の間からポロポロとこぼれるように少なく小さくなる。そしてその果てには苦しさも無くなり、麻酔のかかる瞬間のように多幸的な楽しい気持で意識を失うことであろう。世に臨死体験と言われるものである。臨床医学の巨人オスラーが自らの患者の98%が安らかに死んでいったというのはこのことであろう。
問題はそれまでである。それには「日常」に埋没することである。悲しい。死にたくない気持の強い時は尚、肉体にそれだけの力のある証拠である。その肉体の力を信じて「日常」に埋没することである。これまでやってきたこと、やりたいことを全力投球でやることである。
今一つ、いわゆる基軸時代、紀元500年前ソクラテス、釈迦、孔子、少し遅れてキリストが生まれた。大賢人である。各々が世界宗教を拓いた。
その次の偉人としてアインシュタイン、ハイゼンベルク、マックスプランク他がいる。ノーベル賞級である。ソルべ会議の夕、ホテルに帰り、宗教を論じた。ある者は神を信じ、ある者はそれを疑った。
その次はわれわれ凡人である。ノーベル賞級までの思想は凡人でもそれを理解する事ができる。しかし基軸時代の人の思想は我々が習得した近代の理性では理解納得することができない。
“信ずる事”が唯一、そして何人にも平等に可能な道である。宗教というものをその様に解している。しかし信じられないものは仕方がない。
私は昨今、最後の著として宗教教育の重要性とその実践の内容を研究して埋没すべき「日常」としている。
日連は「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と言ったそうであるが宗教の問題、人間の死はおそるべき最大の問題である。死を思って日常を送ることが出来れば真面目な人生と言えよう。米寿からの声である。