<巻頭言>
要求民主主義から参加民主主義へ

 
財団法人21世紀ヒューマンケア研究機構
理事長  野 尻 武 敏



 「聖域なき構造改革」を掲げて小泉内閣が登場してからすでに2年有半。実際には何もしていないではないかといった厳しい批判にもかかわらず、当初の80%をこえる驚異的な支持率は落ちたにしても、歴代内閣ではなおも高率を維持しています。これは、改革を先送りしてきた「空白の10年」を経験した庶民の間にも改革の断行への要望が広がっていることを示すものでしょう。
 けれども、事は構造改革に止まるでしょうか。一般に「構造」といえば部分の構成比が問題になります。今日、企業にせよ産業にせよ政治にせよ構造の改革が必要なことは言うまでもありませんが、問題はさらに深くそれらを生み支えてきた戦後の「体制」そのものにかかわっているのではないでしょうか。わが国の経済政策が手づまりになってきた最大の原因は財政の破綻にありますが、これ一つとってみてもそのことは明らかなようです。
 わが国の戦後は占領軍による日本改造に始まり、その基本線は家族・地域・国民の各種の共同体を解体し個人を前面に押し出していわゆる「民主化」を進めることにありました。そこから、まず、共同体と結ぶ義務や責任の観念は退いて個人のもっぱら権利の主張が力を占めてきます。唯権利主義の支配です。そこで、人々はそれぞれに権利を主張し、しばしば集団をなし組織を固めて、もっともっととより多くの保障を行政に要求してきました。他方、選挙の度に、得票争いとなる多党議会民主制のもとにあっては、それらの要求を煽るものはあっても好んでこれを抑えるものはなくなります。民主主義はこうしていわば要求民主主義となってきました。
 結果はどうなるでしょう。行政は肥大し、財政は不断に膨張することになります。そして、こうした社会が成り立つためには、分かつべき全体のパイ(GNP)が絶えず膨らんでいなければなりませんから、要求民主主義は経済成長の社会力学を形成することにもなります。しかし、経済が成長期を終わり高度成長の可能性が失われてくるとどうなるでしょう。要求民主主義が続くかぎり、財政の破綻は必定でしょう。
 としますと、破局を免れようとすれば、何が欠かせないことになるでしょうか。人々が権利の保障をただ要求するだけではなく及ぶ限り自ら配慮していくことでしょう。これは構造改革をこえて戦後体制の変革を意味します。そしてその兆しもすでに生じています。各種のボランティア活動の展開やコミュニティづくりへの市民参加の拡大、あるいは愛国心の上程などです。一般的に言えば、唯権利主義を超えて共同の責任を回復していくことです。要求民主主義から参加(または参画)民主主義への変換です。

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