東南アジアの経済と歴史
−東アジアのブロック化は自滅への道

経済学博士 鈴 木   峻
(元 神戸大学大学院 経済学研究科、経済学部教授)


要約
 現在、アジアは中国をはじめとして比較的高い成長を続けており、世界経済の牽引車の役割を果たしている。その内容を見ると、2004年は中国が9.5%という高い成長率をとげ、中国向け輸出で日本、台湾、韓国の東アジアをはじめ、マレーシア、タイ、フィリピン、インドネシア、シンガポールなどの東南アジア諸国も潤っているというのが実情である。しかし、中国依存型の成長がいつまでも続くとは限らない。そうなると、各国がさまざまに工夫して今後も生きていかなければならないことは言うまでもない。東南アジア諸国がASEANという形でまとまっていくのはひとつの方法である。しかし、日本や中国が「東アジア共同体」というような形で、小さくまとまり、米国やヨーロッパにブロックとして対抗するという発想は危険である。ブロック化という考え方は第 2 次世界大戦の原因ともなった「帝国主義時代」の遺物であり、有効性がないことが立証されている。このような「地域対抗意識」は明治維新以降の「欧米先進国」へのコンプレックスの反映ともいえよう。米国もEUもブロック化などはいまのところ考えていない。
 歴史を顧みれば、アジアは有史以来、世界の先進地域だったのである。西欧がアジアを経済的に上回ったのはせいぜい19世紀以降のことである。産業革命が18世紀の後半にイギリスで始まり、それがヨーロッパ大陸に波及し世界経済をリードする以前は、アジアこそが世界で最大の輸出商品の供給地域であった。西欧はアジアの物産を求めて、遠路はるばる航海してきていたのである。しかし、欧米のアジアに対する優越はそれから200年強、20世紀の終わりまで続いた。だが、この勢いが続けば21世紀はアジアの世紀となることは間違いない。しかし、それには条件がある。それは、アジアを過去数百年遅らせてきた「封建主義的」で自己中心的な「萎縮した思想」からの脱却が必要である。今求められているのは「グローバル(世界)に開かれた」アジアである。

〔アジアは古代から近世に至るまでどのように世界市場にかかわってきたか〕
 アジアは古代から現代に至るまで、植民地時代から20世紀後半の約200年を除いて商品(工業品と 1 次産品)の世界最大の供給基地であった。
 陸のシルクロード(主に中国と中央アジア・インド北部とのラクダの隊商による交易)と海のシルクロード(主にインド沿海部と東南アジアと中国との交易)と現在呼ばれている海上ルートによる交易と 2 通りの交易ルートがあったが、中世以降主流になったのは海上ルートであった。

(古代:紀元前から10世紀頃まで)
 モンスーン(季節風)の卓越風の変化(夏季は南西風、冬は北東風)を利用し帆船で 1 年サイクルの交易をおこなった。その時に積極的な役割を果たしていたのは主にインド商人であった。インド商人(アラブ人、ペルシャ人も存在した)がインド、東南アジア、中国の間を往来し、インド文明(バラモン教=神権王制、仏教、サンスクリット文字、農耕技術など)を東南アジアにもたらした。
 主な貿易商品は中国が輸出していたものは絹織物、金属製品、陶器(量的に増えたのは10世紀の南宋以降)であり、インドの輸出品は綿織物、貴金属、宝飾品であり、東南アジアの輸出品は香辛料、香料(香木、乳香)、貴金属などであった。
 また、インド商人は東南アジアのマレー半島やビルマのマンダレーまで偏西風にのってやってきて、そこで食料(主に米)と飲料水の補給を行った。マレー半島西側の主な港にいったん陸揚げされた商品は牛車や象にのせてマレー半島を横断し、シャム湾側の港から再度、船にのせてベトナム、中国方面に運ばれた。マレー半島の東側の貿易で大きな役割を果たしていたのはカンボジア人の扶南や後の真臘(クメール)であった。かえり船で中国の商品が逆ルートでインド方面に運ばれた。唐時代の義浄は西暦671年にこの船に乗ってシュリヴィジャヤ(室利仏逝)経由でインドに仏典を求める旅に出かけ、旅行記「南海寄帰内法伝」を著した。
 10世紀に入り、中国の宋の時代になると東西貿易の形が一変する。それは宋が陶磁器(景徳鎮)の大量生産に成功し、輸出が急増したからである。陶磁器は重量が重く、梱包も大きくなるので、マレー半島を横断するルートは次第に使われなくなり、中国商人がマラッカ海峡まで大型船で直接進出する。そのため、スマトラ島におけるパレンバンやジャンビ、後に14世紀終わりごろからマラッカが貿易の主要な中継点になる。同時にインドシナ半島の中継機能は次第に低下し、クメール帝国も没落を余儀なくされてくる。
 元、明朝時代に陶磁器貿易はいっそう盛んになる。
 当時のヨーロッパはイスラム商人(オスマン・トルコ)経由でアジアの商品(香辛料、綿織物など)を買っていた。地中海貿易によってイタリーのベネツィアなどは大いに栄えた。
 また、この時期になるとインド、アラブ商人がイスラム教をもたらした。1400年前後にはマラッカ王国が成立し、一大貿易拠点となった。マラッカ王国はイスラム教を受け入れた。インド商人のもたらす綿織物が東南アジア最大の人気商品となり、インドネシアも港湾都市の商人はイスラム教に改宗するものが増えていった。
 当時の貿易商品はいっそう豊富になり、東南アジアでは胡椒のほかモルッカ諸島の香辛料(丁子、ニクズク、メース)が目玉商品としてヨーロッパにもたらされた。中国からの輸出品は陶磁器が主流となり、インドは綿織物が主な輸出品となった。
 それに対しヨーロッパは目立った輸出商品が少なく、金銀でアジアの産品を買い付けていた。コロンブスが金を求めて「ジパング=日本」に向かったのは当然の成り行きであった。

(16世紀以降のヨーロッパの進出)
 ヨーロッパで秋に屠殺した家畜の肉の保存用などに香辛料が大量に使われるようになった。しかし、彼らはイスラム商人経由で輸入していたため、香辛料はきわめて高価であった。そこでアジアの物産を直接買い入れようとして大航海時代がはじまった。
 1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは南アフリカ南端をとおり、インド洋にアラブ人の水先案内を使い到達した。はじめにインドのゴアに拠点を開き、さらに、1511年にはマラッカを占領してしまった。
 進出の当初の目的は東南アジアの豊かな物産(特に香辛料)や中国産の陶磁器、絹織物の直接輸入であり、それに見事に成功した。アジアの物産に対する代価はコロンブスが「新たに発見」したアメリカ大陸で獲得した金や銀で支払われた。大航海の歴史的意義はヨーロッパのその後の発展にとってきわめて大きいものであった。
 イギリスは17世紀中ごろからインド産の綿織物の輸入で巨利を得た。後にイギリスは綿織物の生産を自国で機械と動力を使って行う試みが成功し産業革命の端緒を開いた。

(19世紀の植民地時代)
 イギリスに始まった産業革命はヨーロッパに広まり、産業革命によって強大な経済力と軍事力を身につけた。ヨーロッパ諸国は優勢な軍事力を背景にアメリカ大陸をはじめとしてアジアやアフリカ諸国を次々に植民地化していった。それまで世界の辺境であった西欧はアジア諸国に対し一方的「自由主義」すなわち貿易の自由、投資の自由、事業活動の自由を強制し、独立を維持したタイや日本にもそれを強制した。
 ヨーロッパ諸国の経済哲学はリカード的「比較優位論」により工業国(欧米先進国)は工業品を東南アジアに輸出し、東南アジアは農産・鉱業品などの 1 次産品を輸出するという「国際分業」が成立し、それが固定化された。(19世紀的グローバリズムの典型)。農業の資本主義化(主に欧米資本主導による農園経営の成立=砂糖、ゴム、コーヒー、茶等)により、モノ・カルチャー化が進んでいった。これにより食糧の国別の自給体制が崩壊(インドネシア、フィリピン、マレー)してしまった。

(日本の工業化と日本軍の侵略)−大東亜共栄圏は東アジア域内の自給自足体制を前提にしていた。日本軍の真の狙いは石油資源の獲得にあった。
 明治維新後の日本は「富国強兵策」によってアジアの新興工業国として頭角を現した。日本が東南アジアに輸出(特に綿織物)を拡大したことにより、欧米諸国の「自由主義」方針が揺らいでいった。特に第 1 次世界大戦を契機に雑貨、繊維の輸出が急拡大し貿易摩擦が起こり、イギリスも日本との貿易協定の必要に迫られ、日英会商(神戸の繊維業界からも代表が出て活躍)などが行われた、結果的に交渉は成功せず、後の市場争奪戦争(満州事変―対中侵略―大東亜戦争)に発展してしまう。

世界恐慌後は 2 国間協定(FTA)が蔓延
⇒第 2 次世界大戦の原因。
 1929年から始まる世界恐慌によって欧米先進国は自国の市場を守るために、植民地との 2 国間貿易協定(大英帝国連邦など)を次々結び、世界市場をバラバラに分断してしまう。後進資本主義国であるドイツや日本は市場から締め出されてしまい、「持てる国と持たざる国」の対決の結果として、ついに第 2 次世界大戦が引き起こされてしまう。日本は中国からさらに、「大東亜共栄圏」の旗印の下に東南アジアに侵略し、オランダ(インドネシア)、イギリス(ビルマ、マレー)、アメリカ(フィリピン)を駆逐し軍政下においた。日本の占領によって東南アジア諸国は完全に世界貿易から遮断され経済的大混乱に陥る。近隣貿易も制海権の喪失(米軍潜水艦の攻撃)により、食糧貿易が止まり、飢餓が発生した。東南アジアは植民地体制下にはあったが、実は 1 次産品輸出を通じてグローバルな市場につながっていたのである。

[第 2 次世界大戦直後から80年代後半まで]
 戦後は各国とも独立を遅かれ早かれ達成し、植民地体制からの脱却を図った。それはいうまでもなく工業化への取り組みであった。輸入工業品を自国で生産しようという「輸入代替工業化」政策と平行して民族資本の育成策と国営企業の創設を試みた。しかし、部分的には工業化が成功したが民族資本の育成はうまくいかず、その間に華僑資本が成長した(アリ・ババ経済:インドネシア、マレーシア)。
 次に東南アジア諸国を襲ったのは慢性的外貨不足であった。70年代には各国とも外貨獲得を目指して「輸出指向型工業化」政策を採用するが自国のナショナリズムの影響が強く、外資に門戸を開かなかったため目立った成果を挙げられなかった。
 2 度にわたる石油危機後の80年代前半の世界的長期不況(逆オイル・ショック)のもとで各国とも低成長と貿易不振に悩まされた。タイ、マレーシアはこの時期に外資への門戸開放をおこなった。独裁政権下のインドネシア、フィリピンは本格的自由化を拒否し、さらに工業化が遅れた。当時の東南アジアの主な輸出品(1985年頃)は依然として 1 次産品に特化していた。工業品といえば衣類や合板といったものが中心であった。

(プラザ合意と日本企業の大量進出)−輸出基地の創設により工業化が一気に進む
 米国はレーガン政権下で貿易赤字が急拡大したため、1985年秋のプラザ合意により円高が急激に進み、日本の家電メーカーはマレーシア、タイ等への工場移転を開始した。後に、系列の部品メーカーもこれに従った。
 その結果として東南アジア(特にマレーシア、タイ、後れてフィリピン、インドネシア)の工業製品の輸出が急増する。次いで中国も90年代に入り日本、台湾、韓国からの投資急増により工業品輸出を急増させる。
 この時期に図らずも東南アジアの経済の「工業製品によるグローバル化」が一気に進んだ。輸出指向型産業育成のために外資に対して事前に「自由化=門戸開放」政策を実行していたマレーシアとタイが有利な立場にたった。
 輸出品の構成も 1 次産品中心から半導体、電機機器・部品、家電製品、コンピューター部品が中心になっていき、米国、EU、日本向け輸出が急増した。また、東アジア地域内の部品の相互取引も急増した。

[97年の通貨危機と経済危機]
 その間、各国とも固定為替レート制に近い形を採用していた。そのため、短期資金の大量流入と流出が通貨危機の原因という説が今日に至るも「通説」になっている。しかし、本当の要因は華人資本による無謀な不動産投資競争とその破綻による金融危機である(日本のバブル崩壊と類似)。
 タイとインドネシア(後に韓国も)は通貨危機からの救済をIMFに求め、IMFが課した過酷な融資条件(引き締め強化)がいっそう経済を悪化させた。
 とりわけ金融業、不動産業など地元資本(主に華僑資本)が大打撃を受けた。経済危機の当時からエレクトロニクスやコンピューター関連の輸出産業(主に外資)は、外貨借り入れの部分は為替損を受けたが、逆に為替安の恩恵を受けた。1 次産品輸出(コメ、砂糖、パーム油、ゴムなど)も同様である。

[回復過程の東南アジア]
 東南アジアの経済危機からの回復は輸出産業(主に外資による)の拡大⇒雇用の増加⇒個人消費の拡大によって着実になされてきた(従来の高度成長は消滅)。
 現在は東南アジア諸国と中国の輸出競争が激化している。その半面、中国は自国で不足している半導体・電子部品や農産品などの輸入を周辺諸国から急増させている。中国や東南アジアにおける電機・機械製品の輸出の主な担い手は日本、台湾、韓国などの外資系企業である。今後、外国企業がどこに投資していくかによってその国の将来が影響を受ける。その場合問題になるのは「投資環境」である。投資環境には労賃以外にインフラストラクチャー(電力、水、港湾、道路など)や法整備や商業道徳や汚職の程度などが問題になる。目下のところは中国が安い労働力と広大な国内市場が評価されている。

[中国経済の高成長]−大規模バブル経済の進行
中国経済の今日の高度成長にいたる経過を振り返るとほぼ次の通りである。
@輸出ブームが中国経済の高度成長に火をつけた−華南⇒揚子江流域⇒黄河流域
A政府の地域格差是正計画が公共投資を拡大させた⇒高速道路網の整備。
B上海や華南を中心に不動産建設ブームが起こっている⇒実需とは必ずしも直結せず。
C内需の拡大が企業の設備投資を急増させた⇒鉄鋼業、セメント。
D個人所得の急増から家電、自動車の販売急増を招いた。
 これらの要因が重なり合って2004年は9.5%という高成長を遂げた。しかし、今後の中国経済は次のような差し迫った問題を抱えている。
@資本不足は主に金融機関(国営銀行)の貸し出し増加によってまかなわれた。
A国内企業の設備投資は多くは旧式技術で行われている(例、鉄鋼業)。
B労働力不足が顕在化してきている(特に華南)。また、貧富の格差が拡大している。
Cエネルギー不足(石油、電力)が顕在化した。
 こういうなかで過剰投資が利益を生まず、不良債権化しつつある。すなわち東南アジア型バブル崩壊の危険性が増している。
 しかし、中国経済が危機的な破綻をきたさないで、安定成長に軟着陸する可能性もある。それは@輸出産業が経済の下支えとなっており、外資を中心として健全経営をおこなっている企業が少なくない。次にA最終的リスクは国家が背負っているため、国営銀行は不良債権が多くても破綻に追い込まれないで国家が救済してくれる。そのかわり、個々の国有企業が倒産しても政府は責任を負わない。外国資本にとっては相手が国営企業といえども貸し倒れや焦げ付きのリスクを負っていること意味する。

[これからの世界貿易秩序]
 結論;WTO(世界貿易機構)を中心に、「多角的」自由貿易体制を確立する必要がある。FTA( 2 国間貿易協定)は時代に逆行し、世界経済のブロック化を招く危険がある。
 日本は戦後のガット体制(世界貿易の多角的自由化)によって世界で最大の利益を受けてきたのである。日本の弱点は農業(米作だけではない)にある。農業の構造改革こそが必要であるが、政府の取り組みは別の方向に向かっている。
 現在日本が進めようとしているFTAはWTO(貿易の多角化と自由化)に背を向けるものである。FTAをベースにした「東アジア共同体」構想はアジアの孤立化を招く危険性が大きい。このままでは米国、EU、アジアの 3 大ブロックに世界経済が分断されるおそれがある。そうなるともっとも不利益をこうむるのは日本、中国、東南アジアである。
 アジア諸国はアジアの中だけでは生きていけない。ASEANと中国のFTAは将来ASEANが一方的に不利益をこうむる可能性が強くうまくいかない。「世界に開かれたアジア」これこそが古代、中世、植民地時代、戦後さらに今日に至るまで一貫した事実であり、繁栄への道である。

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